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日本史と城【北ノ庄城・福井城】天下に届かなかった柴田勝家と結城秀康の城 賤ケ岳の戦い

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かいのすけ 歴史

内容は現地案内看板や資料を基に作成していますが、様々な解釈があり史実と異なることがありますのでご承知ください。
朝倉氏が織田信長によって滅ぼされた後、この国を治めるようになったのは織田家家臣のなかでもNO.1の地位であった柴田勝家です。勝家は越前の一向一揆を平定し、現在の福井市に大きな城を築きます。柴田勝家が築いた北ノ庄城がどのような城であったのか、いまのところよくわかっていません。のちに家康の子である結城秀康がほぼ同じ場所に城を築いたからです。秀康が築いた城は後に福井城と改名され現在でもその遺構を確認することができますが、福井城は勝家の北ノ庄城を結城秀康が改築したともまったく別の城として築かれたともいわれており、謎だらけなのです。ただ、勝家が築いた北ノ庄城は足羽川と吉野川のちの百間堀が合流した位置にあったと言われ、石垣が発掘されています。河川が合流する場所は何もしなくても複数方向が防御できるので城を築くには絶好の場所。勝家の北の庄城もこの合流点に築かれたのです。北ノ庄城は7層の天守があがる、信長の安土城に匹敵する巨城であったと言われています。宣教師のルイス・フロイスは、「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した」と記録しています。徳川家康の子結城秀康は関ヶ原の戦いにおいて上杉征伐に参加し、そのまま宇都宮城にとどまり上杉氏への守りに備えました。上杉軍が攻めてくることはなく、ひたすら城を守っていたのですが、関ヶ原の戦いの戦功第一位とされ、越前の太守に封ぜられたのです。秀康が築いた城は後に福井城と改名され、現在もその遺構を確認することができます。

posted by bastilleoq