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会津藩のその後♯1「朝敵の汚名返上」【ルシャ翁がゆく・

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ルシャ翁Kouyaがゆく

ブログ「ルシャ翁がゆく」
http://shibarusha.blog.jp/

「朝敵」の汚名を背負って生きなければならなくなってしまった会津藩士たち。「会津は決して朝敵ではない」ことを証明するために、活躍した人物たちとは。

【エピソード紹介】
「山川健次郎」
・少年期に白虎隊に入隊していたの時の経験を元に著した戊辰戦争を会津藩側の立場から見た『会津戊辰戦史』は死後の昭和7年1932年に出版された。この本は旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と書いた初めての本であり、これ以後現代まで会津藩側の立場に立った歴史書や歴史小説では、旧幕府軍を「東軍」新政府軍を「西軍」と書くことが多い。秩父宮妃勢津子の婚約のために奔走したのも健次郎であった。
・会津藩に対する忠誠心は壮年期以降は「愛国心」に転じ、日露戦争の時にはすでに東大総長であったにも関わらず陸軍に「一兵卒として従軍させろ」と押し掛け、人事担当者を困惑させたという。国本社では副会長をつとめ、講演活動にも熱心であった。
物理学に精通したという立場からか極めて現実主義者であり、大正時代の千里眼事件で一番早くに疑念を唱えた。
・「はじめてカレーライスを食べた日本人」と諸本で紹介されていることが多い。実際にカレーライスを食した日本人一号が誰だったかはともかく、明治4年1871年に国費留学生としてアメリカに向かう船中でカレーライスを食べたという記述を回想録に書き残している。しかし、カレーライスを選んだのはそれが唯一米を使った料理であったからで、カレーはすべて残したという。
・2018年1月22日、安倍首相は、衆議院本会議で行った施政方針演説の冒頭に山川健次郎の業績を切り抜きに出した。

「山川浩」
・腕っぷしが強く強情な性格だった。エジプトでピラミッドを見学した際、東洋人をさげすむ態度をとった現地ガイドを殴りつけたという。
・妹・捨松が旧友アリス・ベーコンに送った手紙や柴五郎の回顧などによると、邸宅には常に元会津藩関係者が寄宿しており、また出世した浩に対してたかりのように仕送りをせがむ親戚もいたらしく、晩年まで生活は非常に苦しかったという。また、生涯にわたって会津藩に尽くしたが、一方で非常に反骨心のある人物で、藩学だった朱子学を嫌って陽明学を学んでいたという。
・幕末の一級史料である『京都守護職始末』を記したことで有名だが、自身は草稿段階で死去したため、実際は弟・健次郎が完成させたとするのが定説となっている。

「佐川官兵衛」
・性格は直情的だが人情に厚く、多くの会津藩士から信頼されていた。武勇に秀で、薩長から「鬼の官兵衛」、「鬼佐川」と恐れられた。
・西南戦争で進駐した南阿蘇では官軍の略奪行為を厳しく戒め、地元民に慕われたと言う。南阿蘇には十数カ所の佐川官兵衛慰霊碑が存在する。

posted by aerozol62